ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた 著者 斎藤幸平

はずかしながら私はこの方を存じ上げなかった。

人新世の「資本論」 (集英社新書)こちらの書籍で2021年の新書大賞1位をとったことすら知らない無知な人間だった。

普段からあまり新書を読まない為というのもあるがそれがなぜこのタイトルの本に辿り着いたかと言えば「たまたま」だった。ちらっと並べられた今、話題の書の棚に表紙を立て掛けて置かれているのをチラリと見てタイトルに惹かれこの書を手に取った。

まずは著者自身の経歴を勝手に拝借してくることにする。

【著者略歴】
斎藤幸平(さいとう こうへい)
1987年生まれ。大阪市立大学大学院経済学研究科准教授。ベルリン・フンボルト大学哲学科博士課程修了。博士(哲学)。専門は経済思想、社会思想。
Karl Marx’s Ecosocialism:Capital,Nature,and the Unfinished Critique of Political Economyによって権威ある「ドイッチャー記念賞」を日本人初歴代最年少で受賞。編著に『未来への大分岐』など。

とのことでまだ30代とはいえ私とは大きく違った経歴の持ち主であるがこの本は元々、書き下ろし部分を除き毎日新聞に連載されていたものを一冊の本に纏められたものである。

まえがきにはこう書いてある。「学者は現場を知らない」その言葉を素直に受け止め2年をかけて現場を周って得たものをそのまま、あるがままに自分自身の言葉で書かれている。
勿論、著者自身もそれだけで「現場がわかった」という様な傲慢さは無く、ただ薄っぺらでもこの感じたものを共有し、誰かに伝わることを願って書いたと勝手に私は考えている。

ウーバーイーツで捻挫

初っ端から捻挫である。この言葉から何を感じて欲しかったのか、それを私が受け取ることができたのかは分からないが第一章では社会の変化や違和感に向き合うとのタイトルでコロナ禍そのものだけで無くこれからの国の世界の変化や違和感への体験を語っている。

世の中では働き方改革やフリーランスという働き方、テレワーク、地方へのIターン、Uターンなどネットや新聞の記事ではよく見かけるしそのどれもが成功しているかの様に綺麗な部分だけが切り取られて映し出されている。だが実際はウーバーイーツは個人事業主と責任を押し付け人を人として扱わず、テレワークは無駄を省く一方で無駄を生み出し、社員はみな正規、非正規問わず経営者の立場で考え行動をなど行き過ぎた資本主義が起こす弊害への疑問を投げかけている。その中でこんな生き方もあるのか。こんな労働があるのか。そう言ったものを私の代わりに学者が現場を体験しそれを伝えてくれる。また、個人の生き方、考え方の変化を教えてくれる。現場からだ。

気候変動の地球で

世の中では今、エシカルやサスティナブルやSDGsなどが流行りとなっている。だがそれは誰の為のものなのか?その答えは今の日本は世界はお金の為、というのが正解なのだろう。

私自身、ファストファッションを普段から着ているし手にはスマートフォン、このブログもPCから打ち込んでいる。外に出れば車や電車にも乗り消費をする。消費をする。人よりは物欲は無いと思い込んでいるがそれでも私は生きる為に世界を汚し続けるだろう。また、昆虫食が世界の食糧問題や気候問題を救うということで食用コオロギをベンチャー企業がこぞって参戦している様だがそれにも疑問を呈している。勿論、日本には元から昆虫食の文化がないわけでは無いし私も蜂の子や蜂を食べたことがある(蜂の子は美味しいが蜂は硬くてあまり好みとはいえないが食べることはできる)。著者は否定をしている訳では無いがそれが果たして誰の為なのか、地球の為なのか。疑問を持ったままえびを食べている。

その他にも培養肉というものにも触れている。高級な国産牛より高い様だが食べる食べないの選択肢は別としてSFの世界は言い過ぎかも知れないがやってきそうで怖いものだ。

害獣、鹿や猪などが田畑を荒らすということで農家は困っているがこれは元を正せば人が自分で作り出したものだ。日本狼は生き残っているか。そんな議論はしていないが結局、田舎でのジビエ料理や革製品などと言った利用という形をとることで奪った命を無駄にしない様にエシカルだサスティナブルだ。偶に私は訳が分からなくなる。この本の著者は死をどう見たのだろう。そして著者が行なっている脱プラ生活、私には無理だ。できることはせいぜい手元の20年愛用のマグカップを死ぬまで使うことぐらいだろう。

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偏見を見直し公正な社会へ

外国人労働者の問題がニュースでも取り上げられている。最近でも国会で大きな話題になっていた。差別というものは人が生きている以上無くならないのだろうか。頭がいい人たちが分からないのだ。私には分からない。今を生きるので精一杯だからかも知れない。

小学生の頃、社会の授業で水俣病など公害による学習をしたことは覚えている。でもそれを今、考えているか?授業で習うのは「過去」として習う。しかし著者は実際に「今」と向き合う行動を起こしているそれは水俣病に限らず部落差別問題に関してもだ。これが正解だとは著者も思っていないだろうし複雑な絡まり合った解くことの出来ない何かが未だ渦巻いている。ただ、蓋をして終えていいのか。そうしなければ傷つかないから、私にはどうすべきか分からない。著者の様にはなれないだろう。その表も裏も知る田舎者だからかも知れない。著者が出会った人の言葉に「チッソは私であった」とある。私とは誰なんだろう。

おしまい

ただのへたっぴな読書感想文に過ぎない記事を読んでくれる人がこの世の中にいるかどうかは分からない。最初、この本を読んだ時、「左」の学者さんの書いた本かな?ぐらいの気持ちで読んでいた。勿論、私はこの著者の意見が全て正しいとは思わない。それでも少なくとも部屋にこもってキーボードを叩いているだけの私よりもよっぽど正しいのかも知れない。その正しいの意味は私もよく分からないが。ひとまずこれだけは言える。
某刑事が言う様に会議室では無く現場なんだなと。

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